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渋沢栄一

1840年(天保11年)~1931年 (昭和6年)行年91歳

「道徳経済合一主義」
 埼玉県深谷市に天保11年(1840年)2月13日、裕福の家に生まれる。現在の生家は私塾に使用されている。一生を通じて「儒教」の影響が強い。
十代は倒幕運動(幕府の圧制に反発、武具調達の為の渋沢氏自身の出費は150両~160両、当時の基準米価格で換算すると1千万円を超える金額)をしていたが、将来を考え二十代始めに幕府側に仕える。当初、自分の矛盾した行動に悩まれたが幕府側に仕え日本が欧米に対し遅れをとっていると気づき26歳の時、慶応3年(1867年1月11日※この年の11月15日に坂本龍馬氏、中岡慎太郎氏が京都にて暗殺される。)幕府使節団25名と欧州に行く。(民部公子一行、初めての海外視察、横浜埠頭から上海~香港~サイゴン~シンガポール~スエズ~パリ迄45日間の旅)。航海中、日記「航西日記」を毎日欠かさず書き、政治、経済、芸術にいたる迄、西洋文化について貪欲に吸収していく。特に金融関係に興味を持ち、銀行家、フリュリ・エラール氏の指導を受ける。訪仏中に「大政奉還」となり、帰国する。

 帰国後、静岡に謹慎中の徳川慶喜公を訪ね挨拶をし、やがて、自身、民間人として12人の商人を集め株式会社形式の「商法会所」という事業を起こし、
 ①定期当座預金。
 ②商品抵当の貸付金。
 ③地方農業育成資金の貸付。
 ④米・肥料の仲買。
を始める。銀行と商社を兼ねていた会社であった。事業は軌道にのり発展していくが、新政府から大蔵省への召喚があり大隈重信氏に相談したところ『日本は大切な時期であるゆえ働ける者は力を合わせて日本を立て直さねばならない。』と説得され承諾する。渋沢氏の本意ではなく渋々大蔵省に勤務する。役人になった渋沢氏は貨幣・税制・郵便・鉄道・の改革、さらに廃藩置県等精力的に仕事をするが、主張を曲げぬ性格から多くの敵をつくる事となる。大久保利通氏・江藤新平氏らと政策の違いで争い。辞職する(この頃、井上馨氏も辞職)。金融の発展なくば商業の発展なしとの政府の考えから明治3年(1870年)米国から帰国した伊藤博文氏に銀行条例編纂を渋沢氏は任される。(このころから銀行という言葉が使われた。)三井が銀行業務を行うようになるが渋沢氏は三井単独経営に反対し、他社からの資本参加と一般からの株式を募集し、第一国立銀行とする。渋沢氏は相談役として職務につく。(当時34歳)

 この頃、頭角を現していた三菱の創業者、岩崎弥太郎氏(天保5年1834年~明治18年1885年)と海運事業で争う事になる。(両者の経営理念は油と水、根本的に違った。簡単に言えば、岩崎氏のなんでも「俺が」と渋沢氏の「皆で」という考え方の差である。)
当時の三菱の社規は、【①当社は、しばらく、会社の名を命じ。会社の体をなすといえどもその実まったく一家の事業にして、資金を募集し結社するものと大いに異なり、ゆえに会社に関する一切の事及び賞罰、昇給、降格等、全て社長の特裁を仰ぐべし。②故に会社の利益はまったく社長の一身に止まるべし。】というように渋沢氏の理念とは正反対だった。
海運業は今後の日本経済の鍵であるという渋沢氏と岩崎氏。渋沢氏は三井とともに「郵便蒸気船会社」を設立。岩崎氏も独自にて海運事業を興し双方は徹底した価格競争に入る。その最中、岩崎氏は他界する、行年50歳の若さであった。(渋沢氏は当時45歳で以後91歳で大往生する迄活躍する。)岩崎弥太郎氏の死後、政府の仲介で両者は合併し、「日本郵船」となる。

 渋沢氏は日本経済の発展が日本を豊かにするとの理念から次々に会社を設立していく。
貿易の輸出・入の均衡の調査から人材の登用、資金調達に積極的に活動し、紡績では「大阪紡績」を設立し日本の輸出産業を進展させる。(紡績ブーム)その急激な発展の裏では労働者問題が発生する。労働時間・労働者の低年齢化・低賃金・劣悪な労働環境である。明治29年(1896年)西洋の労働政策を参考として労働法制定の準備をするが資本家・実業家の猛反対にあう。労働法により産業力低下を危惧した理由であった。当時の渋沢氏は労働法には反対の立場ではあった、経営者側の考え方だった。しかし明治40年(1907年)労働者保護に立場を変える。日本国内の産業の急激な変化がもたらした経済発展の裏側では見えぬ悲劇が多く発生した。この事は日本の近代史として忘れてはならない。陽の裏には陰があり、陰の裏には陽がある。

 産業の発展から渋沢氏は民間外交にも力を注ぐ、渋沢氏は生涯に4回、渡米し日米の経済の重要性を説く。明治39年(1906年)4月にサンフランシスコ地震が発生した時に渋沢氏は経済界に働きかけ見舞金を送った、その金額は諸外国の合計をはるかに上回り米国経済界を感動させた。当時の米国では日本人移民の排斥運動の最中であったにもかかわらず実行したのである。17年後の大正12年(1923年)9月の関東大震災時にはアメリカ経済界はいち早く復興の援助の手をさしのべた。

渋沢栄一氏の渡米。
①明治35年(1902年)渋沢氏62歳
 (目的) 海外資本主義の調査・日本経済の信用を高める
②明治42年(1909年)渋沢氏69歳
 (目的) アメリカの日本に対する誤解を解く。
 51名の日本経済界人と同行。米国のマスコミはこの訪米団を大きく取り上げる。
③大正 4年(1915年)渋沢氏75歳
 (目的) パナマ万博がサンフランシスコにて開催の為。(パナマ運河開通記念)
④大正10年(1921年)渋沢氏81歳
 (目的) ワシントン会議のオブザーバーとして渡米。

 上記のように渋沢氏は日本経済の発展はアメリカとの関係を重要視し民間外交を進めた。特に興味深いのは②明治42年(1909年)での米国とのお互いの貿易の思い違いのお互いの主張である。

米国側『日本は自国の商品さえ売れれば良いと考えているのでしはないか?』
日本側『日本を責める前に米国自身が反省すべきだ。もっと日本を研究し、良い製品を作れば、日本も購入するだろう。』
米国側『米国は多くの日本製品を購入している。にもかかわらず日本はヨーロッパの製品を買い続けている。』
日本側『それは公正、不公正という問題ではない、お互いの貿易業者の無知によるものだ。市場調査不足が原因だ。』『今回の51名の訪米は米国製品をもっと買う為に来た。』
約100年前の話であるが、今の日米の貿易問題と同じである。歴史は繰り返すというが、その通りである。余談だが、1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀に来航時も、米国にとり戦略的・経済的にも沖縄を重要視し拠点と考えた事は、現在の普天間基地問題と同じである。今年は2004年、なんと150年も前の史実である。

  晩年の渋沢氏はボランティア活動、公共事業にも力を注ぎ、東京女子学園・一橋大学実業教育・養育・国際交流・病院など600団体に達し、また、渋沢氏の関係した企業は500社にも上る。日本経済の歴史の中で約1世紀前に、国難を生きた先人達が多くいる。その歴史を学ぶ事で新世紀の日本のあるべき姿が見えてくるのではないだろうか?
また、渋沢氏は多くの明治経済人と同様に子孫には築いた資産を多くは残さなかった。経済大国となった現在の日本。山積した内憂外患問題を大人として次世紀の子孫に伝えるものはなんだろうか?「公」と「民」の関係をもう一度見直し、国益と、諸外国に対しての関係を再考し、次世紀に世界にすべき日本の姿を真摯に考える時期ではないだろうか?

【道徳と経済とは両者共に進めていくもので、生産殖利の経済は仁義道徳によって発展し得られるもの、又、仁義道徳の人道は経済によって拡大するものである。】渋沢栄一。

1931年(昭和6年)11月11日(水)行年91歳 葬儀参列者3万人。

平成16年1月記

【参考】
※日本経済の税収減により地方分権は必然。歴史を紐解けば同じ経済状況の中、
 明治18年(1885年)松方正義氏のデフレ政策の不況が極点に達し、
 明治21年(1888年)に地方行政の合併促進、翌年明治22年末に7万~1万5千余に集約される。


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